日本vsニュージーランド ナンバー1にふさわしい人物
前半17分までに4-0。しかも1点目はGKまたはDFがしっかりしていれば生まれなかったでしょうし、岡﨑選手の2点目もGKのファンブルによる失点でした。そんなニュージーランドが相手でしたが、その後日本が停滞して2点を失ったことを考えると、実はちょうど良かったかもしれません。
去年の11月以来のゲーム。内田選手と長谷部選手が負傷、今野選手が体調不良、遠藤選手も足に故障を抱えていると、ザック・ジャパンはスクランブル状態です。さらに香川選手、本田選手が所属クラブで出場機会に恵まれないなど、不安材料はたくさんあります。
韓国が1月25日から2月1日までに3試合をこなしていることを考えると、本大会までの練習試合数が少ないことが心配になりますが、日本は各クラブで過ごしたほうがいいと判断したのでしょうし、そうならその理由も推測はできます。国内組は始動したばかり、海外組も自分のクラブでプレーしたほうが鍛えられるという感じなのでしょう。
ともかくチームを再起動して、メモリテストOK、IOテストOK、ネットワークテストはちょっとつまり気味、オプションはあまりチェックできずという感じではないでしょうか。ただ、正直に言えば少々時間が足りないのではないかと心配になっています。
「試合評」と「選手原稿」をLIVEDOOR NEWSさんに掲載していただきました。
さてこの日、ADカードの1番は、関西からいらっしゃったサッカー界の人間国宝・賀川浩さん。
試合前、こちらも大ベテランの名カメラマンの今井恭司さん(左)との2ショットです。
御年89歳。特攻に行く数日前に戦争が終わり、無事にその後日本サッカーをずっとご覧になっていらっしゃいます。
「国立競技場という名前になって最初の試合は1958年のアジア競技大会の香港戦。この試合には(故)長沼(元日本サッカー協会会長)たちが出てたけど、0-2で負けて、結局、国立競技場ではその大会で1試合しかできなかったよ」
そうすらすらとおっしゃいます。まさに生き字引。調べてみると1958年5月29日、第3回アジア競技大会のことでした。確かにその前は後楽園競輪場や明治神宮競技場などが開催地で、その後も小石川サッカー場などを使っており、国立競技場に戻ってきたのは1960年12月11日、ソ連のロコモチフ・モスクワとの試合で、この試合も3-10と負けています。
賀川さんこそ、この国立最後の日本代表の試合の1番乗りにふさわしい方でした。
最後に、日本サッカー協会が調べてくれていた国立競技場に関するデータに少々手を加えてご紹介しておきます。