川崎の長い半日

テンメイさんはいらいらしていた。彼が練習場に到着したのは9:15。今日は仲間たちと一緒に垂れ幕を張り、選手を激励しようとしているからだ。アウェイの大分戦に負け、イヤな雰囲気が漂いそうだった新潟戦の前にも同じように幕を出した。ゲン担ぎの意味もあった。

だが、テンメイさんの仲間はなかなか来ない。
「このままじゃ選手が先に出てきてしまうだろ!!」
垂れ幕を持ってくるはずのカイトは、「車で向かいます」というメールを寄越したままで連絡がつかない。集合時間の9:30を過ぎてもナガタもゴンタも来なかった。ゴンタはどうやら学校に行かなければならないようだった。

イライラが最高潮のさらにその上を突き抜けそうになっていた9:50、白い車がゲートの前に止まった。カイトがひきつった顔をして降りてくる。「お前なんだと思ってるんだよ!!」。テンメイさんの罵声が飛んだ。「すんません。道に迷って」。真っ白な顔をしたカイトが一言だけ口にした。「早く運べよ。ひとりで運べ。できるだろ!!」。カイトは急いで幕を持ち、坂道をダッシュした。

幕を取り付け始めたちょうどその時、この日一番のダッシュでナガタが坂道を走ってきた。この坂道をこのスピードで走っておりてきた人物は今までいなかっただろう。すかさずテンメイさんの怒声が飛ぶ。ナガタは黙って幕を取り付け始めた。

もしかしたらカイトもナガタも、日常生活ではこんなに怒られることはないかもしれない。仕事でもないのに、ここまで叱責されてもなおこのコミュニティにいるのは傍から見ると不思議な光景だ。それでも彼らは居続ける。理不尽にも思えるほど与えられる仕事や責任をも快楽に変えてしまうほどの何かがあるのだろう。

10:13、横断幕がきちんと張られた。この日は練習前にミーティングがあり、チームがピッチに出てくるのが遅れたのが幸いした。テンメイさんは心底ほっとした顔をした。

IMG_1988

「KAWASAKI」の幕の上に、レナチーニョの幕が一枚張ってある。なぜレナチーニョだけ? カイトは、彼らのグループが作った幕はレナチーニョだけで、あとは他のグループから預かった幕なので出さなかった、という。鄭大世やジュニーニョは残念に思わないか、とテンメイさんに聞いたら、「新潟戦でレナチーニョが交代させられて、その後代わりに入った黒津が活躍して点が入ったから、レナチーニョがしょげていると思って」と言う。ナガタは来年の外国籍選手がどうなるか気にしている。どうやら契約がどうなるかはっきりしていないレナチーニョのことを心配してもいるらしい。

10:22、室内ミーティングが終わりチームがピッチに出てきた。レナチーニョが自分の似顔絵が描かれた幕を見て、テンメイさんたちに視線を移した。テンメイさんたちはその一瞬の視線だけで、お互いの気持ちが分かりあえたのを確信した。

ピッチの上ではいつも以上のテンションで練習が進んでいる。川崎は勝たなければ優勝できない。みんな迷いのない顔をしていた。

ウォーミングアップが始まってしばらくすると、木口美和子さんがやってきた。去年までは頻繁に取材に来られたのだが、今年はモデルの仕事が忙しくなってなかなか練習場に来られなかった。だが、今日は何とか仕事の合間に駆けつけたのだ。川崎が優勝したときにはテレビ神奈川で特別番組が放映されることになっている。そのときのネタを自分でも見つけておきたかった。だけどちょっと失敗した、と彼女は思っていた。着ていたコートが薄くて、体がとても冷えてしまった。

 IMG_1989

この日の練習では、かつてないほどそれぞれの選手が体のキレを見せていた。誰が出場しても、きっと何かができそうなほど、高い集中力とスピードが川崎の選手たちにはあった。テンメイさんも、カイトも、ナガタも、木口さんも、その姿を目に焼き付けていた。

11:54、明日の出場が予想されるメンバーは引き上げてきた。ファンが駆け寄るが平日なのであまり数は多くない。ピッチではまだ他の選手の練習が続いているのでテンメイさんたちは選手に声をかけつつ練習を見守っている。

13:18、選手がみんな引き上げ、テンメイさんたちも垂れ幕を片づけ終えた。テンメイさんはこれから仕事に向かう。今日は半休をとってきたそうだ。「でももう休みがあまり残ってなくて、うちの会社は有給の支給が4月だから、それまで何とか凌がなきゃいけないんです」。カイトは明日の垂れ幕の積み込みに行くという。ナガタは自営業なので何とか大丈夫なんです、とちょっと笑った。

14:20、ほとんどの選手がクラブハウスを後にした。鄭大世選手は「あとはやってナンボ」と気迫溢れる顔で言った。谷口選手は「残り15分ぐらいかもしれないけど、出たらおいしいところ取れたらいいですね」とはにかんだ。黒津選手は「体がキレている? そう言ってもらうとうれしいけど、自分じゃ分からないですね」ととぼけた。横山選手は「あまり緊張はしないほうなんです。明日は田坂選手が点を取りそうな予感がします」と仲間を盛り上げた。田坂選手は「横山選手が言うように点が取れるよう頑張ります」と胸を張った。寺田選手は「試合に出られないときもチームのために何ができるか考えていた」と振り返ったが大事な試合に間に合った。レナチーニョ選手は親指を立ててにっこりした。関塚監督は「はい、明日頑張ります」と陰りなく口にして、さっと車に乗って去っていった。 今日は16:00出発の予定で再度集まり、決戦の地で前泊する。

Follow me!

未分類

前の記事

ワールドカップ用ボール
未分類

次の記事

ごめんね森選手