箕輪義信さんの引退
箕輪義信さんが引退なさいました。J1リーグ合計103試合6得点、J2リーグ合計153得点11得点。2005年10月12日、キエフでのウクライナ戦に57分から出場、代表のキャップを手にしました。
寡黙な人でした。今でも覚えているのは、初めて話したときのこと。たった一言でしたが、忘れられません。
2003年11月22日、翌日にJ2リーグ最終戦を控えていた川崎を僕は取材に行きました。その前の節で湘南に2-2で引き分け、他力本願になってしまったものの、川崎にはわずかに昇格の可能性が残っていました。練習後、ゆっくりと歩いて引き上げてくる箕輪選手は恐ろしいくらい気合いが入っていて、まるで体から黒い影が立ち上っているかのようでした。目が合ったので「明日は頑張ってください」と声を掛けると、静かに「任せてください」と空気をはき出すように言い、その迫力で僕はその後何も聞けませんでした。
翌日、ホームに昇格を決めている広島を迎えた川崎は勝利を収めたものの、結局争っていた新潟が勝利を収め、勝ち点1の差で昇格を逃しました。選手たちの落胆ぶりは激しく、僕も遠慮して誰からもあまり話を聞くことはできませんでした。
でも、そのときに話をしたのがきっかけで、箕輪さんとはよく会話するようになりました。僕が川崎の守備について書いた記事を読んで「僕のプレーは好きじゃないでしょう」と言われたこともあります。もちろんそんなことはなかったのですが、その後もよくプレーなどについてなぜそんな選択をしたのかなど、教えてもらうことができました。そして僕が肩の脱臼をしたとき、どの医者がいいかいろいろ調べて電話をくださいました。
札幌に行ったとき、自分から周りの選手に声をかけコミュニケーションを取ってまとめようとしていると聞いて電話をしたら「似合わないことやってます」とちょっと照れながら話していらっしゃいました。
黙々と職人としてプレーを続け、その妥協を許さない姿勢のために人とぶつかることもあったと思います。だけど、根はとても優しくて、気が細やかな人でした。そして芯の強い人でした。そうでなければ、3年間のリハビリに耐えられるはずもありません。
2007年のグロインペイン症候群はあったものの、それまで「箕輪さんがケガをするはずがない」と川崎のチームメイトから讃えられていたのに、初めての大けがとなった右足腓腹筋腱断裂が引退の引き金となってしまったのは本当に残念です。
どうか箕輪さんにこれからもすばらしいサッカー人生が待っていますように。