ちょっと涼しい夜とちょっと温かな白い花

午前中のトレーニングのキャンセルが当日の15時に発表となる。午後は20時から。たぶん涼しいはずだ。
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練習場はハノイの中心地から約20分の距離にある。現在開発が進んでいる場所だ。つまり、まだいろんな施設ができていない。立派なスタジアムと、それに隣接する練習場が2面と、大きな道路兼広場と、移動遊園地ぐらい。

ということは、あまり車が通っていないと言うことだ。しかも今日は練習時間が遅い。不安が的中する。練習終了後、今日はタクシーが一切止まっていなかった。

これはもう少し車が通る場所に行ってタクシーを探すしかない。同じホテルに泊まっている他の3人と、2人ずつのグループで2手に分かれてタクシーを捜すことにした。

まず移動遊園地に行く。なぜか今日は子どもが少ない。きらきらと明るいがタクシーはいない。
その前の、凧揚げの中心地になっている大きな広場ではたくさんのカップルが凧を上げていた。もう22時過ぎというのにみんな凧揚げに夢中だ。

お、タクシー発見! こりゃすぐ見つかってよかった、と思ったけど車の中はからっぽだ。どうやら運転手もデートの最中のようだった。

とりあえず歩いてホテルの方向を目指す。すぐに明かりは少なくなった。車は走っているけれどタクシーはいない。

しばらく歩いたところの道沿いにレストランがあったのを思い出す。そこで食事をしながらタクシーを呼ぶことにしよう。

ところが、なかなかレストランの光が見えない。夜のハノイの郊外、いかにも地元の人じゃない格好をした2人がテクテクと道ばたを歩いている。練習場の前の道路はキレイに造ってあるが、しばらくすると歩道がなくなった。

道の向こうにいた色黒の中年男性と目が合った。白いバイクに乗っている。何か大声で話しかけてきた。言葉が分からないし、ちょっと怪しそうな雰囲気だったので無視する。

返事がないので彼はバイクをブイィと言わせて側までやってきた。
きっとタクシーの代わりに乗っていけというのだろう。もちろん無許可だろうし、何よりバイクに3人で乗るのは怖い。こっちではよくみるけど。
「バイク?」
「ノー。アイ・ニード・ア・タクシー」
「オッケー」
そういうと色黒の彼はバイクでどこかに立ち去り、簡単に引き下がってくれた。

また歩き始める。すぐに髪が長くて、赤味のかかった洋服を着た20代らしい女性が2人やってきた。タクシーとのやりとりを見ていたのだろう。警戒したまま話を聞く。彼女たちは一生懸命に何かか話しかけてくるのだが内容が分からない。

笑顔は絶やさないまま首を横に振る。何かの合図で誰か飛び出してくるんじゃないかと周りをチラッと見渡しておいた。彼女たち2人は手招きして、草の生えた中央分離帯に来いという仕草をした。よくみるとそこに男女数名が輪になって座っていてお茶を飲んでいる。子どもも数人いた。レモネード、という言葉だけは分かった。笑顔だけは絶やさず頭をもう一度横に振って断った。何か盛られている可能性もあると思っていたからだ。

その輪の中に10代の、ちょっとボーイッシュな女の子がいた。最初ははにかんでいたのだが、ちょっとだけ英語が話せるのだろう。意を決して話しかけてきた。
「アイ・ヘルプ……ミー」
え? 助けて? でも自分が? きょとんとすると女の子は激しく手を左右に振って
「アイ・ヘルプ・ユー」
と目をぱちぱちしながら話してくる。

ありがとう、でも友だちが車を回してくるから大丈夫なはずだよ。そう答えると、彼女はちょっと残念そうな顔をして去っていった。

草むらの影にまた別のグループが座っていたようだ。今度は別のグループから30代とおぼしき女性2人が子ども3人を連れてやってきた。どうやら草むらの中のたくさんの人たちが、道に迷っていそうな日本人二人を案じてくれているようだった。そういえばみんなの視線が温かい。やっとその雰囲気に気付いて、肩の力が抜けていくのが分かった。

女性の一人が英語で話しかけてきた。
「20分一緒にお茶を飲みませんか。そうしたら夫が帰ってくるので、夫がその後タクシーを捜しに行きますよ」
子どもたちがじっとこっちの目をみている。こっちがどう反応するのか楽しみにしている興味深そうな目だ。ちょっと怖がっている感じもあった。

そこにさっき話しかけてきたバイクの男が帰ってきた。後ろにタクシーを従えている。
「ヘイ、タクシー、タクシー!」
バイクの男が満面の笑みで叫んだ。彼がタクシーを呼んできてくれたのだ。

ふと周りをみると、中央分離帯にすわってお茶をしていた人たちみんながこっちをみている。赤い服の女性やボーイッシュな子、子ども連れの奥さんたち、それからこちらには寄ってこなかったけれど、座ってみていた老人や他の人たち。たくさんの目が安堵の表情を浮かべて微笑みを投げかけてきた。

みんなすごく心配してくれていたのだ。
「サンキュー」
タクシーの男に言って握手をする。
「サンキュー」
道のみんなに向かって大きな声を出した。

何人かが「さよなら」と手を振ってくる。僕も最初は手を振った。でも彼らの優しい気持ちに気付いて、自分の感情が手を振るくらいじゃ収まらなくなった。勝ったときにサッカー選手がサポーターの前でやるように両手を上に延ばしてぶんぶん振る。
「ありがとう!」
日本語で叫ぶ。
一斉に彼らの手が振られた。その手は白かった。大きな手や、小さな手が、みんな白かった。タクシーの中で僕はずっと彼らの方を向いて手を振り続けた。少し走ると、決して明るくないハノイの夜の中では、その白い手だけがみえた。草の生い茂る中央分離帯に咲いた数えきれない白い花が、別れを惜しんで風に揺らいでいるかのようだった。

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